情報が風化する時代に、問いが始まる

COLUMN

情報が風化する時代に、問いが始まる

ある日ふと、手元のスマートフォンを眺めて思った。ここには世界がある。だが、世界はどこにもない。

検索窓に言葉を打ち込めば、数秒で「答え」が表示される。誰かの知恵、誰かの経験、誰かの痛み、誰かの歓びが、まるで水を注ぐように、透明な情報として目の前に広がる。それは便利で、刺激的で、時に感動的ですらある。

だが、そこには「自分」がいない。情報は、私を含まずに流れていく。


情報が希少だった頃、私は世界と出会った

私が中高生だった頃、情報は空気のようには手に入らなかった。何かを知るためには、本屋に足を運び、人に会い、旅に出た。知るということは、触れるということだった。

友人の一言、恩師の背中、ラジオから流れる声、何気なくめくった雑誌の1ページ、偶然出会った人の癖。

情報はいつも、生きていた。熱を持っていた。その熱を、私たちは交換し、信じ、時に裏切り、また育てた。


無料になった知は、自由になったのか?

2000年代、音楽は配信に移行し、本は要約され、知識は動画で供給されるようになった。あらゆる知は、指の上で「スワイプされる対象」となった。私たちは、選びすぎて、選ばなくなった。求めすぎて、何を求めていたかを忘れた。

無料になった情報は、自由になったのだろうか?

いや、情報は「価格」を失っても、意味を持ち続けることはできる。だがその意味は、受け取る者の態度にかかっている。


情報とは、誰かの時間の結晶である

すべての情報は、本来、誰かの「時間」から生まれている。悩み、考え、試し、失敗し、また挑戦し、ようやくたどり着いた一片のことば、構造、感覚。

それは「所有されるもの」ではなく、「継承されるもの」だった。

けれど今や、受け継がれる前に、消費されていく。

それが問題なのだ。


情報を得て、なお人は空虚でいられるのはなぜか?

理由は単純だ。

情報が「答え」であるという幻想に、私たちは慣れすぎたのだ。

本当は、情報とは「問い」のきっかけでしかない。だが私たちは、「知らない」ことに耐えられない。だから、すぐに検索し、納得し、思考を閉じてしまう。

だが人生は、本来、「知ってしまったあとの、なお続く問い」だ。知ってしまったあとで、どう悩むか。どう迷うか。どう生きるか。


若者たちは、未来の手前で立ち尽くしている

最近、20代半ばの若者たちと仕事を共にした。彼らは多くを知っている。私が何年もかけて積み上げてきたことを、数日で越えていく。けれど、どこかで彼らは迷っている。選択肢の多さに、未来の軽さに、問いの不在に。

情報を武器にするには、世界と手をつなぐ「感覚」が必要なのだ。それは、痛みを感じる皮膚のようなものだ。

流れてくる情報に、違和感を感じる感性のようなものだ。


分断と沈黙と、「知ったかぶり」の時代

今、社会はイージー化したようで、なぜか重たくなっている。

情報の伝達は早くなったが、会話は遅くなった。商品はすぐに届くが、関係性はどこかへ行ってしまった。本質を知らずに語る者、知ったふりで反論する者。知識があることで、逆に会話が成立しない場面が増えている。

「知っている」と「わかっている」の間には、深い裂け目がある。その裂け目に、静かな沈黙が落ちている。


情報とは、出会いの入り口である

いま、私はこう考えている。情報とは、知識ではない。関係性の兆しだ。

何かを知ることで、私は誰かを思い出す。誰かの話し方、表情、悩んでいた背中、笑っていた横顔。

それこそが、「生きた情報」だ。

本来、情報とは「物語」の一部であり、誰かと出会うための入り口なのだ。


問いがすべてを始める

情報の海を前にして、私たちに必要なのは、すぐに「わかる」ことではなく、ゆっくりと問う姿勢だ。

なぜそれを知りたいのか?

誰のために? 何のために?

そして、その問いは、どこへ続いているのか?

そう、情報の価値とは、それを「持っているかどうか」ではなく、それによって「自分という物語」が動き出すかどうかにかかっている。

情報は風化する。だが、問いは生き続ける。

 

 

 

 

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