トレンドはどこへ向かうのか 2026
経済環境の変化とともに、思考や表現、サイズ感や素材感までもが変わっていく。それは単なる流行の移り変わりではなく、人間の価値基準そのものの変化だ。
20世紀初頭、パリ・コレクションから始まったオートクチュールは、限られた人間のための一点物だった。やがて1960〜70年代、プレタポルテが確立され、ファッションは“共有されるもの”へと変わっていく。だが、経済が揺らぐたびに、その価値観は大きく振れる。90年代の停滞は古着という過去へと視線を向けさせ、2000年代初頭にはエディ・スリマンが極端に細いシルエットを提示した。さらにリーマンショック以降、ユニクロ、ZARAやH&Mによって“それっぽさ”は誰でも手に入るものになった。
結果として、「普通におしゃれ」であることの価値は消え、人々は極端に走る。
細いか、太いか。
汚いか、綺麗か。
装飾か、削ぎ落としか。
振り幅そのものがインパクトになり、ファッションは強い記号性を帯びていった。
写真に載せているのは、2000年代後半から現在までに購入してきた服の中でも、個人的には凄く好きでも、ニッチすぎて着ていてもあまり理解されなかった物たちだ。ただ、不思議とどれも手元に残っている。共通しているのは、極端なサイズでもなければ、強いトレンドの記号を持っているわけでもないこと。それらは、自分の身体との誤差が少なく、過不足のないバランスで成立しているからだ。そしてそれ以上に重要なのは、自分の身体を理解し、そのメリットとデメリットを含めて成立させているということ。つまりそれは、単にサイズが合っているという話ではない。これまで歩んできた時間や、選択、失敗や継続と矛盾しない、という意味でのフィット感だ。
トレンドは極端に振れることでインパクトを生む。だが本質的には、自分に似合うバランスこそがオシャレであり、もっと言えば、自分が歩んできた人生や経験を反映しているスタイルこそがオシャレなのではないかと思う。
今の時代、ファッションはあまりにも外部化されている。価値はリセールで測られ、レアリティや価格が先行し、意味は市場が決める。子供ですら“いくらになるか”を基準に物を見るようになった。だが、その価値基準は長くは続かない。まもなく、資産価値のようなものがどうでもよくなるフェーズに入るはずだ。誰もが同じ情報にアクセスできる環境では、「価値を知っていること」自体の価値が薄れていくからだ。
残るのは何か。
それを“体現しているかどうか”だけだ。岡村靖幸氏が放つ「どぉなっちゃってんだよ」や「愛はオシャレじゃない」という言葉には、その本質がある。本当に重要なものは、消費される記号にはならない。だからこそ、それは“オシャレ”という枠には収まりきらない。周りを見れば、スタイルをうまく成立させている人間もいる。一貫した世界観を持ち、それを自然に体現している存在だ。極端なトレンドが一巡した今、次に来るのは“リアル”だと思う。それはシンプルでもナチュラルでもなく、自分の身体、自分の時間、自分の選択と矛盾しないもの。つまり、自分が体現してきた世界を、そのまま反映できるファッションだ。トレンドは、外側から与えられるものではなくなっていく。内側から滲み出たものだけが、結果として“トレンドのように見える”。
そろそろ、リアルをスタイルにする時が来ている。











