Kanagawa 2024 Shin-Yokohama to Kyoto
日本の仏教寺院が一番多い県は、京都と答える人が多いですが滋賀県です
そして、日本の仏教宗派でお寺の数が多い宗派は曹洞宗で、禅宗の一派です
2番目に多いのが、西本願寺派(本願寺派)、3番目は真宗大谷派、4番目は浄土宗です
その後に、日蓮、真言、臨済宗と続きます
京都の経済を考える時、宗教の力を意識することは不可欠
各宗派の本山が京都に集結し、人や文物を引きつけ、往来を重ねる
社寺が行う祭礼に企業が進んで協力し、仏壇や仏具に見られる 絢爛けんらん な装飾は、練達の職人による高い技術を生み出した
宗教の教えや導かれる哲学は、現代の企業活動の倫理や法令順守の精神にも生きている
日本には古来より、先祖の霊や山や川などの自然を神として崇める信仰がありました
多神教であった日本に仏の教えと仏像が持ち込まれたことで、日本には土地に根付いた神々がいるというのに、異国の神を持ち込むなどけしからんとして、仏教推進派と反対派とで意見が割れます
インドで成立した仏教が、中国に伝来した時期については、文献上では前漢の哀帝の紀元前2年に大月氏国の使者が伝えたのが最初とされる
最初の信者となったのが後漢の明帝(在位57年~75年)の異母弟楚王英であり、皇帝としての最初の信者は後漢の桓帝(在位147~167年)であった
中国・朝鮮半島(百済)を経由して日本に仏教が伝来したのは、飛鳥時代の“538年(552年)”と考えられていて、朝鮮半島の三国時代にあった百済 (くだら)という国の聖明王(せいめいおう)が、飛鳥時代にあったヤマト王朝(ヤマト王権)の欽明天皇(きんめいてんのう)に釈迦仏の金銅像や経論などを 贈ったというのが日本仏教の始まりです
仏教信仰の是非を巡って、仏教を受け容れるべきとする『崇仏派』の蘇我稲目(そがのいなめ)・蘇我馬子(そがのうまこ)と、仏教を日本から排斥すべきとい う『排仏派』の物部尾輿(もののべのおこし)・物部守屋(もののべのもりや)が争いましたが、最終的に蘇我氏(と聖徳太子)が物部氏を滅ぼして、日本に仏教信仰が根づいていく基盤が作られました
厩戸皇子(うまやどのおうじ,聖徳太子)は、物部氏との戦いで神仏の四天王に戦勝祈願をしていたので、戦いに勝利した後に四天王への帰依・感謝の念を込めて摂津国難波に『四天王寺』を建立しました
蘇我馬子も神仏の加護に対する感謝の証として『飛鳥寺(法興寺)』を建立していますが、推古天皇・聖徳太子の 政治体制の下で仏教信仰は強く奨励されることになり『法隆寺(斑鳩寺)』をはじめとする由緒ある寺院が多く建立されました
厩戸皇子(聖徳太子)は『法華経・維摩経・勝鬘経』の三つの経典の解説書である『三経義疏(さんきょうぎしょ)』を書いて仏教に帰依しており、『十七条憲 法(604年)』の第二条も『篤く三宝を敬へ 三宝とは仏・法・僧なり』となっていて、仏教には日本(朝廷)の国教的な位置づけが与えられることになりました
聖徳太子が篤く敬うよう述べた「三宝」
これは、条文にも書かれているように仏・法・僧という仏教で最も大切にしているもの
仏教では古くから時代や国を問わず、まずこの三宝に帰依することが仏教徒になる第一歩とされ、非常に重要視されてきました
「仏」とは、さとりを開いた存在である仏さまのことをいいます
私たちは日々、貪りや怒り、迷いというさまざまな欲望や負の感情のなかで生きています
それらから解き放たれた仏さまの姿を目指すことは、煩悩から解き放たれた明るい生活につながるといえるでしょう
「法」とは、その仏さまが迷いから脱するために説かれた教えのこと
私たちは日常のさまざまな出来事のなかで迷い、ときに過ちを犯してしまうこともあります
その正誤の指針となる仏さまの教えに従うことで、正しい、よりよい生活につながるといえます
「僧」とは、その教えに従って生活をする仲間たちのこと
私たちは、さまざまな人とのつながりの中で生きています
同じく仏教の教えの元に生きている人はもとより、自身に関わるすべての人と支えあい、励ましあい、思いやりをもって生きることは、よりよい社会を築くことにつながるといえます
争いの時代に生まれ、仏教を篤く信仰した聖徳太子は、この三宝に基づいて国造りをすることで、人々が欲望に惑わされず、正しい生活を送り、そして争いのない国を作っていくことを目指そうとしたのではないでしょうか
世界的に混乱期であると言われている現在になんらかのヒントがあるのではないかと久々に京都へ行く事にした…